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動物愛護は迷惑か [夜話]

将棋カテゴリにすべきかどうか迷ったが、将棋自体とは関係ないので、こちらに。


加藤一二三九段の野良猫えさやり訴訟の第一審判決がでた。

あらましをご存じない方のために、簡単に説明すると、加藤九段が野良猫を不憫に思いえさをやり続けたところ、結果として近所が猫だらけになり、鳴き声やら爪研ぎやらで近所住民が閉口し、訴訟に及んだというもの。
一審判決は、えさやり等を禁止する管理組合条項があることを主な理由として原告側の訴えを認め、加藤九段に賠償を命じた。

と、書いてしまうと、味も素っ気もないし、賠償金額の多寡はともかく形式的にはこの判決は当然だと思われる。
が、いくつか考えさせられるところがある。

まず、猫が近所に増えることは、そこまで本質的に迷惑なのか・・・という純粋な疑問。

かつて実家にいた頃、ほとんど野良猫同然の飼い猫とその一族(毎年どんどん増殖する)がいて、地域でのさばっていた。あるときは、器用にも人の家の窓を開けて上がり込み、ウナギのパックをせしめたなんてこともあった。
それ以降、みんなが戸締まりに気をつける様にはなったが、勿論、訴訟なんてことにはならなかった。
鳴き声も季節がくれば、それなりにうるさかったが、だいたい田舎は鶏やらカエルやら虫やらで年中動物の声にあふれているので、気にはならなかった。ああ、また季節が来たな~というだけ。風物詩。
糞も、しっかり人の家の庭にしていってくれていたが、犬猫なんてそんなもんでしょ~とみんな思ってた気がする。中には目くじらたてる人もいたけど、逆に偏屈な人っていうふうに見られてた気がする。何となくみんなで飼ってる共有猫みたいな感じで暖かく見守っていたというのが私の記憶である。

だいたい、世の乙女は、「あ~、あの猫かわいい!」とか言ってえさをやったりして、ぶりっこしてポイントを稼ごうとしたりなどしたりする。猫も賢くて、カップルを狙い撃ちして近づくのだが(笑)

そんなわけで、猫のえさやり自体にそんなに目くじらたてることかいなという見方もあり得るという気がするのだ。
たとえ、管理組合の条項があったとしても。こっそり飼ってる人って実はいると思うし、結構ばれたりしてもいると思うのだが、大体謝罪+原状回復で済んでいるのではないか。

では、このたび、何故に訴訟に至っているのか。


加藤九段は変人が多い将棋棋士のなかでも、はっきりと群を抜いている。
これと決めたら一筋・・・といえば聞こえはよいが、これが尋常ではない。

対局時の食事がずっと同じメニューというのは有名だし、さらにそれを何故か人にも強引に勧める!盤の位置とか暖房の配置にも途方もないこだわりがあったりして、変な場所に移動したりする。
ただし、これらの奇行にも悪意は全くなく、加藤九段の中では全て善意で筋が通っているということは関係者の間では一致した見解だと聞いている。

また加藤九段は敬虔なクリスチャンとして知られている。
私は宗教は全く詳しくないが、キリスト教には愛のためなら万難耐えるという考え方が根底にあるようで、それが、加藤九段の決めたら一筋のパーソナリティに非常によくマッチしているように思う。

つまり、想像するところ、
「不憫な猫にえさをやる」=「愛」=「善」であり、そこには異議を差し挟む余地の全くない方程式が出来上がっていて、何を言われても聞く耳を持たないという状況だったのではないか。
それゆえ、周辺住民も最初は穏便に済ますつもりだったが、そのノリに神経を逆なでされたため、ついに訴訟に至ったのではないか。

しかしながら、仮にこういう流れであれば、猫のえさやり自体の善悪は問題の本質ではなく、重要なことは、加藤九段と周辺住民とのコミュニケーションと人間関係だろう。野良猫ではなく共有猫として暖かく見守り、みんなでトイレのしつけや爪研ぎ用の木柱なんか用意したりして、仲良く猫に接するという選択肢をとることも、十分にありえるのだから。

私の思うところ、裁判というものは、単に理屈の上で勝った負けただけではなく、発生した不具合を調停する過程で、原告・被告間の関係の修復を行う場という性格もあるはずだ。

この件に関して、法解釈上は、はっきり言って逆転の余地はないと思うので、二審以降は是非そういった関係性の修復という部分を重視してもらいたいなと思う。


タグ:裁判 将棋
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