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ナショナリズムに関する一・二の考察(1) [夜話]

第二次世界大戦後の我が国において、今こそはもっともナショナリズムが吹き荒れている時期だといっても過言ではないだろう。ごく最近だけに絞っても、尖閣諸島の問題しかり、北方領土問題しかり。政府の無策と迷走は、さらに火に油を注いでいるようにも見える。

結論から言うと、私自身は、浮ついたナショナリズムに与する気はない。

一つには、私はナショナリストが概して嫌いだからだ。私が出会ってきた多くのナショナリストは、自分たちだけが憂国の士で頑張っているのだという変な優越感にひたり、ナショナリズムが本来的に我欲の衝突にすぎないという事実を忘れている。ただ、それが国家レベルでの話であり、「お国のため」という格好良いお墨付きがあるというだけだ。しかし、それを自覚せずに、ただ自分が国家に貢献しているという妄想に酔い、色々とおしつけがましいことを言うという特徴がある。もちろん、本格派の右派論者は、そういうことはなく、ナショナリズムが含んでいる偽善の部分についてもしっかりと自覚した上で、それでも、守るべきものは守っていかなくてはいけないのだということを丁寧に議論しているのだが、にわかナショナリストがネット上に大量発生している昨今では、希少と言わざるを得なくなった。残念なことである。

二つ目には、ナショナリズムというものの正体が、いまいち良く分からないからだということもある。私は自分自身はナショナリストではないと思っているが、それなりに愛国心らしきものがあるようだし、尖閣諸島の件についてはもちろん当初から憤りを感じていた。しかしながら、この愛国心はどこから生まれているのか、尖閣諸島のような事件が発生した場合に、何故憤りを感じるのかと言うことについて、明快に説明できないところがあるのだ。これが自分の中で納得のいく説明ができないうちは、ナショナリズムに与することはそもそも根本的にできっこないとも言えよう。

しかしながら、こうも曖昧な状態では、どういう話をするにしても論陣を張ることは難しい。そこで、少し自分なりにナショナリズムについて、考えをまとめておこうというのが、狙いである。理系脳がこういう分野のことを突っ込んで考えたりするとどういうことになるのかというのも、我が事ながらちょっと興味深い。

本題は、・・・つまるところ、ナショナリズムとは何か。どこから生まれて、人々をどこへ連れて行こうとしているのか。

この基本的な問いの答えは、しかし、驚くべき事に、いまだ結論がでていないというのが実態のようだ。このように人口に膾炙しているものでありながら、その正体は突き止められていないのだ。それは、ナショナリズムという思想について、歴史に名を刻むべき"偉大なる思想家"が輩出されていないと言うところに、端的に現れているように思われる。

単純に考えるならば、ナショナリズムを構成するための必要条件(十分条件とは限らない)は、固有の領土を持つ、国民国家(ネーション)の存在であろう。しかし、固有の領土という概念も、国民国家の概念も、歴史的には極めて最近に誕生したものである。国民国家自体が、少なくとも普通選挙が行われないことには、成立しない。さらに、固有の領土という概念も古いようで新しい。領土が王家の私有地ではなく、国民の公有地として定義され、かつ排他的な性格を有したのは、歴史的にはずいぶんと新しいことだ。未だにあまりそういう思想になじんでいない民族もいるぐらいだ。ということは、ナショナリズム自体が、きわめて新しく、国民主権という概念以降の産物ということになる。この流れからすれば、国民が政治に参加しているからこそ、自国民と他国民が明瞭に区別されるし、国民国家の究極の目的が国民の幸福であるから、"国益"というものが国民の中で定義される。国家は国民の利益を守り、できれば増やすように動くことが宿命づけられる。そして、それを国民自身が担うのである。それゆえ、その一部としてナショナリズムが興ったというふうに理解することができよう。

だいぶ大ざっぱにまとめているが、こういう考え方が、学界の主流であるようだ。しかし、これは本当であろうか。

この説明は、かなり本質をついているようにも思われるが、観測事実を十分説明し得ていないところがあるようにも思われる。

まず、何故"国家"レベルの利益追求なのかということである。県民ショーなる番組が、それなりにウケていることからも明らかなように、我々は例え国内であっても縁のない地域のことはほとんど知らないのだ。そのように知らない他人のために、"国益"を主張し、そのために色々と投げ出せるのは何故かということである。

知り合いの多い、生まれた街とか、ご近所とか、そういうものの利益を守りたいというのは、社会生活本能とも言うべきもので、間違いなくサルやそれ以前の群れで暮らすほ乳類の時代から持っている生物学的な機能だということで良かろう。

それとは全く逆に、そういうしがらみから全く離れて、理想論の究極たる地球規模での協調主義というのもあり得るだろう。"世界の利益"を追求する・・・というのは、実現の難しさはさておいて、一つの理想論としては万人に受け入れられるものであろう。ご近所愛か、世界的博愛か。この両極端は、それぞれに根拠があり、誰もがその考えを認めそうである。しかし、国家というのは、その意味では中途半端な集団階層のように思えてくるのだ。構成員間には、中途半端につながりがあり、中途半端に他人である。

次に、本当に国民国家が必要条件なのかどうかである。たとえば、小学校の運動会を思い出してみよう。紅組と白組に分かれた瞬間に、それぞれの組でナショナリズム様の高揚感が湧いては来なかっただろうか。あの感覚は、ナショナリズム様であってナショナリズムではないのかもしれない。しかし、どう区別すればよいかは難しい。とりあえず、紅組、白組は内部に参政権があるわけではなく(当然だが)、組の政治は、教師と団長とその側近くらいの密室協議(笑)で決まっていたはずだ。であるにも関わらず、団員は団結して組全体の利益(得点とか)を向上させることを考えながら戦えていたはずだ。学校全体で組み分けするわけだから、当然知らない子もたくさんいるわけだし、一応陣地や応援席という排他的"領土"を持っているわけだし、小規模で簡潔ながら模擬的には参政権のない国家に近い要素を備えているように思う。そこで、味わったあの感覚は、ではどう説明するのか。・・・ということになる。

最後に、本当に"固有の領土"を有する必要があるかということにも若干の疑問を呈したい。"固有の領土"というのは、ナショナリズムとセットのように思われているが、必ずしもそうではないような気がする。たとえば、遊牧民にとっては、"固有の領土"というのは極めて理解しにくい概念であろう。そのあたり一帯を利用するということであって、厳密な境界など意識していないはずだ。では、遊牧民族社会にナショナリズム様の感覚は皆無なのかというと、そんなことは無いだろう。

三つの疑問のうち、一つ目は、端的に言うと"反ナショナリズムの感覚"のどこにほころびがあるかを探るということである。というのも、国家レベルであるが故に、対外的には摩擦が発生するし、対内的には国民個人の人権を犠牲にしても国益を求める可能性があり、対外的にも対内的にも両面に問題を抱えることにつながるからである。そこが、ナショナリズムの本質的な問題点である。これが、仲の良いご近所集団ならば、対外的には衝突するかもしれないが、内部の利害は基本的に一致していて対内的には問題は発生しないだろう。世界的協調の場合は、究極の全体主義であるから個人の人権が脅かされる可能性はあるが、対外摩擦はない。そこをあえて、両面に問題を抱えるレベルの思想を選択するのは何故か・・・ということは、ナショナリズムに対する根源的問いであろう。

後ろ二つは、端的に言ってしまえば、"ナショナリストの感覚"を客観的にどう分析するかと言うことである。自分の属する集団に対する愛着は、極めて自然な発想であって、だからナショナリズムは自然な思想だという主張には間違いはないのか。ここでは、"自分の属する集団"が一度定義されてしまえば、そこに愛着を覚えるのは社会的動物の本能であって、これ以上は生物学に任せれば良いはずだ。おそらく"自分の属する集団"をどう把握するかということに、問題の焦点があり、その意味では一つ目の疑問と裏でつながっていると言えよう。

続く。


タグ:政治 時事
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コメント 1

eegge

グローバル化によって、やがて世界は一つなり、国家というものは消失すると信じている人が少なくないようですが、これは全く間違いです。



実在の世界は「一即多・多即一」として流動しています。「一」すなわち一般・普遍というものは「多」すなわち特殊・個多と対立・矛盾し、切磋琢磨することを「動力」として動いて行くものです。一である世界(世界国家)などというものは静止した世界であり、人類の滅亡を意味します。



ナショナリズムは一方では世界発展の原動力となり、他方では世界滅亡の原因となる、まさに諸刃の剣なのです。現に、グローバル化という一般化に対して、文明、宗教、人種、民族等による特殊化の動きが次第に表面化して来ています。戦後の世界秩序は、「ロゴス中心主義」「人間中心主義」といった「ヨーロッパ中心主義」による一般化でしたが、その勢いは次第に衰えつつあり、中国、アラブ諸国、インド、南アフリカ諸国等が台頭しつつあるということは衆知の通りです。このような流れの中にあって、日本、中国、韓国の対立はある意味では必然なのです。



経済や人権は「あるもの」ですが、文明・文化は「あるべきもの」として創造されるものです。従って、経済や人権は普遍的・一般的ですが、文明・文化は個性的であり特殊です。私たち個々人に個性があるように、国家にも個性があります、個性は存在理由であり存在意義です、個性なくして実在はあり得ません。



日本文明は、世界八大文明(日本文明、西欧文明、イスラム文明、中華文明、ヒンドゥー文明、東方正教会文明、ラテンアメリカ文明、アフリカ文明)の中で、唯一、一国のみで成立している孤立文明です。



日本国の国家概念は、歴史的客観精神(歴史的共同精神)とその環境である自然環境(国土)、人工環境(文明・文化)、および歴史的共同精神の最先端(現世代)に於ける国民(現世代の主観的精神と客観的精神)、そして歴史的共同精神の象徴である天皇といった諸概念によって構成されています。これをわかりやすくDNAに例えれば、DNAが置かれている環境として自然環境(国土)と人工環境(日本の文明・文化)がり、この環境の下に悠久の過去から永遠の未来に向けて歴史的なDNAの束(歴史的共同精神)があり、その象徴として天皇があり、我々国民は現在(現世代)におけるDNAのキャリア(運搬人)であり、キャリアとしての我々は歴史的共同精神を継承すると共にDNAの未来の運命を担っています。

by eegge (2014-01-22 03:57) 

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