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ナショナリズムに関する一・二の考察(2) [夜話]

そもそもnationというのは、もとは同郷の派閥というような意味だったようだ。それが、転じて現在のような用法になったらしい。

あまり言葉遊びに走らない方が良いかもしれないが、水琴は、ここに何かしらのヒントがあるような気がしている。すなわち「同郷」というものの定義は何かということと、結局は「派閥」であるということである。

同郷というもののイメージは人それぞれに異なるだろうし、同じ人でもタイミングによって違うと思う。水琴は年に数回海外出張するけれど、欧米にいると何となくアジア人くらいまでは近しい気がしてくる。アジアに居ると日本ということを意識する。また、海外出張から帰ってくるときは、日本の空港に到着すれば、もう帰ったような気分になる。東京に居るときは、岐阜県内+名古屋圏くらいの範囲が故郷な気がする。実家に帰れば、町内こそが故郷だ。そういうときは、我が町と隣町は違うという気になっている。東京から見れば、点に過ぎないのだけど。

結局、「同郷」のイメージは、そのとき置かれた環境や、その人の経験によって変わってくる。その範囲を「日本」におくということは、あまたある選択肢の中の一つにすぎないようにも思われる。しかし、国家というのはかなり大きい範囲であり、多くの場合、想像しうる最大の同郷集団であろう。日本の場合は、比較的まだ想像しやすいほうだと思うが、中国などの場合では果たして心底中国が同郷集団であると思っている人はいかほどであろうか。

いずれにしても、広い範囲を「同郷」と認識するためには、少なくともその外を意識する必要があるし、またかなり異質な者も内部に取り込める度量がなければならない。したがって、国家レベルのナショナリズムを意識するためには、前提として世界と自国に対する博い見識と想像力を持っていないといけないということになる。これが、ナショナリズムの魅力であり、また多くの人が共有することが難しい原因ではないか。すなわち、ナショナリズムの魅力に取り憑かれる人々というのは、要するにそういう幅広い見識と度量を備えたナショナリストにまず惹かれるのではないかと思うのだ。できれば自分もそうなりたいと願うであろうし、そうでなくともその"崇高な理想"の一翼を担いたくなるだろう。そして、それは"自分たち"の利益になることなのだと信じることができる。

一方で、国家とは異なる「同郷」の定義を持つ人々にとっては、理解しがたい(もしくは理解したくない)思想であろう。国家よりも広い範囲を「同郷」と思っている人にとっては、狭量な局所最適化思想と見えるだろう。結局のところ、同じ人間なので、外国であっても多くのことは似通っているものだ。海外経験がある人は、違いにも驚くが、でも実は意外と同じ所も多いのだということにも驚くという経験があるのではないか。一方で、国家よりも狭い範囲を「同郷」と思っている人にとっては、別に国家レベルの事なんて私には関係ないし~とか思うことになるだろう。

結局、思想・信条の自由が保証されるならば、極めて多様な「同郷」レベルの階層で"ナショナリズム"が存在し得るというのが自然な状況であろう。国家レベルにおけるナショナリズムは、しかし、大多数の人がぎりぎり実感を伴って想像しうる最上のレベルであり、その意味で特殊な地位を占めているのではないかという風に考えられる。

ここまで、「同郷」というもののとらえ方について見てきたが、もう一方の派閥という点についてはどうか。派閥というのは、それを包含するような、より大きな社会集団の部分集合であり、利害を共通するものから成っている団体というイメージがある。これもナショナリズムの本質を突いているように思われる。派閥であるから、地球規模での協調へと進化する気遣いはない。仮に、火星人や金星人などというものがいて適度に協調したり利害対立してたりすれば、プラネティズムというものが生まれる可能性はあるかもしれない。しかし、現在の所はそういう心配はなさそうである。

また、内部では一定の共通の利害が共有されていて(もしくは、と信じていて)、その利益追求を至上命題とする集団であるという特徴は、まさしく「国益」という語に集約されているように思われる。

そして、いくぶん厄介なのが、派閥の内部の意見を集約するときには、大体その中で最も血の気が多い方に引き寄せられるという傾向があることだ。端的に言ってしまえば、人は、熱血と熱狂に弱いのだ。そして集団心理。そういうものが相まって、結果的に過激化しやすいという性質がある。そして集団が大きくなればなるほど、集団心理は強力になるし、集団の平均から離れた人間を包含する確率が高くなるので、より過激化しやすくなる。これもまた、ナショナリズムの特徴の一つとして認識されていることであろう。一方で、そのことが、世界の中で、国家を最強クラスの圧力団体たらしめているわけで、もちろん恩恵も多い。ただし、諸刃の剣であることを忘れないようにしたいということである。

総合すると、結局人間の日常的な想像力・理解力の限界ぎりぎりの最大の同郷派閥主義というのが、いわゆるナショナリズムではないか・・・というのが、今の私の理解である。最大級であるということは、思想として"立派そう"ということにつながるし、現実に発揮しうる力の大きさとしても最大級であるということも忘れてはいけないポイントであろう。

人間というのは、とかく派閥を作るのが大好きなので、いわゆるナショナリズムは、その一形態として、やはり自然に発生したものであろう。その意味では、ナショナリズムは自然な思想のあり方の一つと言えよう。しかしながら、国家レベルが同郷集団だという認識を初めて多くの人々が共有できたのは、やはり国民国家の誕生まで待たねば成るまい。当たり前だが、国家に国民が大いに関わってこない限り、そういう意識はあり得ないはずだ。その意味では、国民国家の誕生とともに作られた思想だという見方も可能だろう。その意味では、ナショナリストが、ナショナリズムは自然な思想であると主張しているのも間違いではないし、また、ナショナリズムは近代国家以降の特殊な思想であるという学説も、間違いではないと思われる。

ところで、そうであるばらば、なぜナショナリズムが、今になって、また大いに取り上げられるのであろうか。むしろ、ここ最近は、概して言うと国家の枠を超えた世界協調が大事だというような流れが顕著になってきている時代ではなかったのか。身近なところでも、概して言うと派閥主義は嫌われる傾向にあるように思われる。また、インターネットを通じて、誰もが個人として"世界"に参加できるようになりつつあるわけで、その意味では、国家というものにとらわれず、個人で色々とできることも増えたはずである。しかるに、何故、今の時代にナショナリズムは台頭してきているのか。

ここまでの考察では、その点に対する説明は、やや不十分だったように思われる。

次へ続く。


タグ:政治 時事
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