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危険性と規制と対策と(1) [夜話]

ちょっと、ひねくれたお話。

何らかの物質もしくは物理現象に危険性があるかどうかということ、それに対する規制がどのように設定されているかということ、そして、それに関する対策を現実にどうするかということは、必ずしも一連のつながりがあるとは限らないと考えた方が良い・・・と、私は思っています。

たとえば、危険性があるかどうかと言うのは科学が担当すべき領域でしょうが、規制は最終的には政治が決める領域であって、科学的知見によってのみ定められるわけではありません。もちろん、科学的知見も参考にして決めるわけですから、そこそこの関連性はありますが、それだけが決めてではないのが政治の世界です。

ときに、悲しいことに政界の方々に科学的知見が正しく理解されないということもあります。逆に科学的な知見が確定していない領域では、必然的に政治的判断が支配的になるのは当然でしょう。

そういうわけで、科学的観点から見たときに危険なラインよりも、十分すぎるほどの余裕を持って規制を設定したり、逆に"高度な政治的判断"により逆に危険側に食い込んでしまうようなこともあります。「よく分からないけど、とりあえず、こんなものかな?」というようなものもあります。

結果としては、規制値を超えたから、直ちに危険というわけではないという話もあれば、規制を守っていたからと言って安全とは限らないという話もある・・・ということになります。

幸か不幸か、科学的合意と政治的合意は、しばしば大いに異なります。それをもって、科学者と政治家が対立したり、ときに互いに「あいつらは何もわかっとらん・・・」と完全にすれ違いを起こすこともあります。私は、そんなこと言わないで時間をかけて話し合えば、いずれお互いにずれる理由を理解し合えると信じていますが、ただ、普段考えていることが全く違うので、容易なことでないのも事実です。


また、さらに進めて、具体的な対策の実行は、最終的には行政であれ民間であれ、実践の領域であって、そこでは周辺事情も考慮しつつ、現実に即した対応が求められます。要するに、有限の人手・資金・方法論のなかで、競合する他の問題とも折り合いを付けながら、実行しなくてはいけません。その結果としては、理念や規制と一時的にコンフリクトすることもあり得るでしょう。これもまた、できれば無いに越したことはないですが、現実を直視するならば、やむを得ないことでしょう。


しかるに、医科学的観点からの危険性と法制度の議論をごちゃまぜにしたり、それを超えて一足飛びに対策の話を結びつけて議論しようとするのは、少々短絡的で、それを元にして実際に物事が動き始めてしまうと、後々、不要な軋轢を生む可能性がある(もしくは、現に生みつつある)と思われます。

逆に、これらの論点を、ある程度分けた上で議論できるならば、筋金入りの活動家でもない限りは、かなりの範囲で相互理解と歩み寄りを図ることも可能ではないかと考えています。


・・・今回は、少し抽象的になってしまいましたね。次回、より具体的なイメージを書きたいと思います。


タグ:思想 科学 政治
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コメント 4

tamiya

はじめまして。
しばしば日記を拝見しております。
法律を勉強した者からの見方をお伝えすることにも多少の意味があるかと思いましてコメントいたします。

「その結果としては、理念や規制と一時的にコンフリクトすることもあり得るでしょう。これもまた、できれば無いに越したことはないですが、現実を直視するならば、やむを得ないことでしょう。」と書かれたことについてです。

規制とコンフリクトするのはやむをえないことがあるとの点については、そのときには時限的に規制を変えるべきだと思います。
コンフリクトをそのままにして「規制違反はやむをえない、見逃す。」と言ってしまっては、法秩序への信頼を損なうものと考えます。

「理念」についてですが、現実から出発し、理念に近付く方向で、何をすべきかという発想が必要と考えます。その構想力と実行力が政治に求められています。
この場面で、科学者の知識、経験が提供されることが重要かと思います。
by tamiya (2011-07-07 13:20) 

水琴

tamiyaさん>

貴重なコメントありがとうございます。

個人的にはtamiyaさんの意見に賛同するところですが、「規制を状況に応じて変えること自体が信頼できない」という声もあるかと思います。

私自身としては、科学的知見に基づいて規制はこうあるべきであろうという意見は言えますが、そういうところと関係なく、「変更する」という手続き論自体を攻められると何ともお手上げ状態です。

また規制を変更するにあたっては、その施行および世の中に浸透するまでには、現実的に、どうしても若干の時間遅れが発生してしまいます。そこでは、やはり「一時的なコンフリクト」というのは、発生してしまうのではないでしょうか。

このような部分について法学系の方はどのように考えられているのか、実務的観点、法哲学的観点等を問わず、ご教示いただければ幸いです。

by 水琴 (2011-07-08 00:04) 

tamiya

おはようございます。
私は行政の場で法令の立案の仕事をしてきましたので、実務的観点からのコメントしか差し上げられませんが、お役に立てれば幸いです。

一つ具体例を挙げましょう。
「規制値を超えたから、直ちに危険というわけではないという話もあれば」というご指摘で思い浮かぶのが高速道路の最高速度規制です。
高速道路では時速100キロが最高速度と決められています。
一方、高速道路の設計速度は時速120キロです。例えば、カーブのきつさは時速120キロで問題なく走れるようにという前提で設計されています。
時速105キロで走ったら直ちに危険かというと、そうでもないかもしれません。

しかし、警察は、「少しくらいのスピード違反はかまいません、見逃しますよ。」と公式にアナウンスできるわけがありません。絶対にできません。

最高速度を100キロから120キロに変更してはどうかという議論があります。
もし120キロにしても安全性が全く損なわれないのなら、そう変更するのが適切です。
ここで必要なのが科学的知見です。
現時点では、100キロを超えると事故率が高まるなど危険性が増すことを示す調査研究があるそうです(内閣府資料)。その結果、100キロは変更しないというのが行政の考え方です。
これはこれで理解できます。

さて、対策の問題です。
100キロを超えたら直ちに検挙するということは実際は行われていません。
これで良いのでしょうか?
警察の胸中を推測してみます。私の推測でしかありません。
「厳しく検挙したら100キロを変更すべきだという世論が盛り上がるだろうが、それは避けたい。大幅なスピード違反を取り締まる程度にして交通安全教育で100キロ遵守の意識を植え付けるのがベターな策だ。」
警察は、公式には絶対にこんなことは言いません。しかし、ドライバーの意識に合った運用だとも思えるのです。

少し一般化してみましょう。
「規制値を超えたから、直ちに危険というわけではない」のが真実であっても、当局が公式に「違反してもかまいません、見逃します。」と言うことはありえません。
規制値を定めるにあたり科学的知見に基づくことが必要です。何の客観的根拠も無く行政の主観だけで数字を決めるということは考えられません。
しかし、国民が本音の部分で受け入れる範囲での弾力的運用はあり得ます(公式には認めないとしても)。

蛇足です。
ある問題に関心を持つ国民は、その分野の科学的知見を得たいと希望しています。科学者が知識経験を提供して下さるのを待っています。
それに基づいて、規制値が適切かどうか、運用が適切かどうか、一般人なりの判断をしたいのです。
どうか、その願いに応えていただきたいです。
by tamiya (2011-07-08 10:07) 

水琴

tamiyaさん>

ご丁寧な返信ありがとうございました。身近な例も交えていただき、非常に良く分かりました。

最後の部分につきましては、私も微力ながら、引き続き努力していこうと思います。

by 水琴 (2011-07-09 23:21) 

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